ジュゴンの家・日誌
「ジュゴンの家」の賛助会員、募集中
「ジュゴンの家」は沖縄・名護にあるリサイクルショップです!!お店を開けつつ、「基地建設をとめたい!!」という思いで、日々行動しています。
「ジュゴンの家」では「ジュゴンの家」を支えてくださる賛助会員を募集しています。
「力になろう!」という皆さま!!
ぜひ、賛助会員になってください!!よろしくお願いします!
会員申し込みは・・・FAXまたはメールでお知らせください。
  住    所 沖縄県名護市城2-13-2
  電話&FAX 0980−54−2948 
   e−mail   dugonghouse_in_okinawa@yahoo.co.jp
会費・・・月1000円、年10.000円となります
同基金への協力は 
●琉球銀行 普通口座 名護支店
 口 座 番 号   23−130
 口 座 名  西 陽子 まで

よろしくお願いいたします
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晋君が韓国へ行ってきました!〜「一日目」沖縄→韓国インチョン→ピョンテク・テチュリ。
←沖縄国際空港。めっちゃ混んでます。韓国だけでなく、中国、台湾行きの人もいっぱい。飛行機に乗るだけで2時間かかっています。

→インチョン空港でケイさんが出迎えてくれました。ケイさんはフリージャーナリストとして韓国で働きながらチャンゴの修行をしています。今回の僕らの通訳もしていただきます。
ピョンテクに着きました。6時間ほどかかりました。「食事処ミラクシクタン」 一息つくトミヤマさん。 やっとこさ、ご飯です!
皆さん、お疲れですが、ご飯は辛くてとってもおいしいです。
Pm7時30分・テチュリに着きました。
前回まで午後6時30分からだったロウソク集会。今日は午後7時からでした。912日目。 毎日、その日に撮った映像を「ビデオ日記」にしています。その上映会。 「912日目のロウソク集会を闘いきったぞ!」「オォォーー!」
宿泊所でトジョンさんと再会!沖縄土産の「久米仙(泡盛)」と「ちんすこー」を渡しました。トジョンさん久米仙もってグッドサイン。 しばらくするとトジョンさんがマッコリを人数分持って登場。喜ぶトミヤマさん。 テチュリに入って一年間ドキュメンタリーを撮り続けている中井監督。韓国語がほとんど出来ない中で映像を撮ってきた経緯などを聞かせてもらいました。
台所に立つトジョンさんとユビンさん。たくさんご飯を出してくださっています。 私達から沖縄の状況を話し、トジョンさんからピョンテクの状況を聞きました。訳しているケイさんは必死です・お疲れ様です。 夜も更けてまいりましたが、まだまだつもる話しでいっぱいです。
「ピョンテク/テチュ里/06/05からの簡単年表(トジョンさんから聞いた限り。)」

2006年
●5/14・テチュリ小学校分校が国軍・戦闘警察によって破壊される。
●6月・キム、ジテ里長(テチュ里)逮捕。
●9月・空家の強制破壊、撤去が開始される。
●12/27・住民が立ち退きを飲む代わりにキム・ジテ里長の釈放を要求。

2007年
●1月・国防部が「人が住んでいる家の強制撤去」を政府に申請。
●1/2・住民と国防部の間で移住の話し合いが始まる。
「3/31までに全ての住民がテチュリ、トドゥリから出て行くように」と政府が通告している。

★これはあくまで簡単に書いた年表です。中味はもっと色々と複雑ですので文書にするのには整理する時間が必要です。しばしお持ちを。
ピョンテク・テチュ里。2日目。
午前7時30分、朝の散歩に出かけました。 基地の拡張工事に反対する各家には看板が出ています。 やけに犬が多いテチュ里。出て行った人が置いていって野良が増えたとか。
デモ使われていた農業用トラクター。 キム・ジテ里長の牛舎小屋。一度、焼かれてしまったこともありました。 各所に検問は点在しているが、現在はほとんど車を止めて職務質問などは行っていない。(一時期は10数箇所において検問が行われ、テチュ里に入ることは困難でした。)
破壊された家々の横を歩きながら。 守り神が立っています。 現在はまったく田畑を耕されていません。田畑の周りを鉄条網が包囲しています。
道路も建設されていました。
畑に鉄条網が張られています。 国軍・国防部が勝手に大きな水路を建設し、その中に鉄条網を埋め込み、田畑に入れないようにされています。
←ハルモニ・ハルボジ達が花札をやったり昼食会をやったりしている「老人亭」です。

→午前9時頃、僕達が泊まっている場所に帰ると朝食を用意して持っていてくださいました。
朝食後、すぐにコーヒータイム。
ペンソンウ・ノワリ(テチュ里住民達が移住するように言われている場所。)
ノワリの地を見ながらトジョンさんの説明を受けました。 3万へーベーの土地ですが、水道や電気といったものは何も整備されていません。 韓国政府はテチュ里の住民に対して執拗に立ち退きを要求しています。政府は土地も無償での提供ではなく、お金を払えと言って来ていると説明がありました。
本当に荒地です。
買出し・韓国のスーパー。
テチュ里分校(強制破壊)跡
←テチュ里分校の開校〜廃校になるまでの歴史が刻まれている碑です。
「1969年開校〜2000年9月廃校」
←チョン・ボン・ジュンの銅像。

甲午農民戦争の指導者(東学党の乱とも呼ばれていたが、農民が主体の闘いだったとして甲午農民戦争と名前が変えられています)。
甲午農民戦争は韓国王朝と諸外国の圧政に対し、諸外国を利用して圧政を強めた王朝に対して農民が起こした反乱です。一時期は朝鮮半島の半分を指揮下に置くほどまで農民達が勢力を伸ばしたため、韓国王朝が清国の軍事介入を許し、それを好機と考えた日本帝国が「清国の国政干渉許さず」と公然と朝鮮侵略に乗り出しました。それが「日清戦争」です。
チョン・ボン・ジュン氏は日清戦争の最中、清国(現在の中国)と韓国王朝、日本帝国と実力で闘い続けた農民達の指導者です。
甲午農民戦争で武装蜂起したのは農民達であり、農機具で闘ったため、日本帝国軍によってその多くが大虐殺されています。しかし、その歴史のほとんどが解き明かされていないのが現実だと聞かされました。

その銅像が破壊された小学校跡に高々と置かれていました。
テチュ里資料館
テチュ里の各地から集めたもので作られている資料館です。 手作り感がプンプンです。 昔の農機具が飾られています。
テチュ里の人々の昔の写真がたくさん貼られていました。虫眼鏡つき。 版画で作られたデザイン画。
この間の闘いの写真。 お米を入れる袋。 多くの支援者からの横断幕と版画の絵。
強制破壊された空き家跡
昼食
ノワリ・テチュ里住民が政府から移住せよと言われている場所が整備されるまでの間、政府に住みなさいと言われている住宅地。
夜、ピョンテク中心街でテチュ里チキミ(チキミは守り神の意。テチュ里の住民と共に本気で闘う人達のこと。)の人達と交流会。


 沖縄・名護・辺野古の美しい海を埋め立て作ろうとしている新しい軍事基地建設を止めさせるために、おばぁたちが座り込みをはじめてから8年と600日以上。その怒りを正面からうけとめもせずに国は、ムリヤリ、かなりボーリョク的に着手し、調査のために建てられた5コのやぐらは、すでに海中のサンゴをふみくだいている。日本の各地で、世界で、この基地を作ることに対し、抗議の声がうずまいているとゆーのに。

 今、辺野古では、陸上での座り込み、海上・海底でのカヌーや船を使った阻止行動がつづけられており、那覇、大阪、京都、名古屋、東京では座り込みなどで辺野古のことを訴える活動が広まっている。これらを通じて辺野古を知り、これをじぶんの問題として重くうけとめた若者たちが辺野古にあつまり「カヌー隊」として活躍しはじめているところだ。

 弟のシュウは、船の免許をとり、「阻止船」を操縦している。巨大な作業船が辺野古に現れた日、通らせまいと、台船の進路に立ちはだかったが、台船は停まらず、シュウの船は何十倍もの大きさのその船に突撃、間一髪転ぷくはまぬがれたという。数年まえまでいわゆる「不登校」だった弟は、幸運なきっかけを得て、沖縄に行き、沖縄のかかえる問題を知り、辺野古のおばぁ達に出会った。おばぁ達に、学校では教えてくれないいくつものことをおそわり、「戦(いくさ)やならん、命どぅ宝(ぬちどぅたから)」とおそわった。これ以上、おばぁたちに、基地を苦しみを座り込むことをおしつけたくない、たった1人になってもここに立って止めよう、命をはってでも、と決めた。しかし、台船にぶつかる瞬間、シュウの頭をよぎったのは「かならず、生きぬいて帰ってきなさい、なにがあっても」という、おばぁのコトバと、大切な人たちの顔の走馬灯。死ぬわけにはいかない。なにがあっても生きていること、それ以上に価値あるものはない。おばぁの言葉の意味すること。弟の死がもたらす悲しみは、おばぁたちをも殺しかねないのだ。

 恋人のユウスケは、カヌー隊で、海上でのすわりこみをするため、名護でくらしている。ある日、仕事をやめ、彼は「辺野古に行こうと思う」と言った。それは、唐突ではあるがまるで必然のようだった。生活=お金のための生活をやめて、イメージに近いほうを選ぼうとしていたユウスケ。辺野古のことは知っていた。基地ができれば、もちろん自然はこわされ、それ以上に人がたくさん死ぬ。ねがいは、ただ、「幸せになること」。だからこそ、目の前に見えている脅威を見てみぬふりをして自分を偽ることはできない。ほんとうに幸せになりたいから、止めに行く。それが、ユウスケのイメージだ。ものすごくシンプルに、「好きな人を失いたくない、悲しませたくない」から、この不穏な世の中の流れを止めるために動く、その中でいま1番焦点になっているのが辺野古だったのである。

 カズマサ君は、仕事をやめてから、地元・名古屋と辺野古を行き来し、名古屋では街頭アピールなどで広め、辺野古では、はげしく船酔いしながらも必死で阻止行動をしている。

 サチコは施設局側の作業員との攻防で1度、指を3cmきり、流血したが、今日も笑顔で海に出て行き、カヌーをこいでいる。

 彼らは全員20歳代だ。若いからと言って失うものがないわけではない。仕事も、恋人もギセイにしてきている。
家族や友人の理解が必ずしも得られるわけではない。経済基盤も保障ももちろんない。
彼らはなにも好き好んで「たたかい」に来ているのではない。それぞれの意志で来ているのは確かだが、闘いたくて
闘っているわけではないのだ。ほんとうなら、好きな人と好きな場所で心おだやかに暮らしたい。
世の中が本当に平和なら、やりたいことは他にもっとある。
 それでもかれらが辺野古に来るのはなぜか。
 どうしても、今止めなければならないから。
 人の命をなんとも思わない人々がゆるせないから。
 命が大切と言うことだけは、どーしてもゆずれないから。

 私自身は東京で店を持ち、そこから発信していくために東京でやることに決めたため、辺野古には行けない。
先日も顔を蹴られるなどの暴行をカヌー隊メンバーが作業員から暴行を受けたとの報道があった。
東京で、はなれた場所でそのようなニュースを耳にすると、怒りとかやりきれなさが体中をうずまいて
いてもたってもいられない気持ちになります。今すぐにでも辺野古に行きたい。
 ケガさせられたり、あるは殺されたり、捕まったり。自分の大切な人がそんな目に、いつ合わされるか分からない状況
の中で、日常をおくらなければならないのが辛い。はなれていて手と足もだせない、叫んでも届かないのが辛い。
 ものすごく個人的な話ではある。
でも、自分の大切な人のいのちが大切なのは、誰でもあてはまるはずである。
自分の周りの人を大切に思うことと、戦争をなくそうと思うことは同じことだ。
大切な人が死んだらイヤだ。だから 戦争はやめよう、基地はいらない。
足りないのは、あと少しの想像力。イラクやアフガニスタンで、パレスチナで、亡くなった人々の周りの気持ち。
周りの人々のきもち。悲しくないわけがない。怒りがわいてこないわけがない。

 もう一度 問いかけます。辺野古の若者たちの「命を守るたたかい」にあなたは何を思いますか。 
 私たちは、辺野古で闘う若者たちの友人・知人・家族として、彼らの生活を支えるためのカンパを訴えます。
彼らが心置きなく行動するためには、1人・1ヶ月の生活資金・5万円ぐらいかかります。5万円×5〜6人を毎月作りたいと思っています。

 東京の「街」では、できるだけ多く地域の人たちが参加してくれるために「100円カンパ」を始めました。
 家族会も結成されました。

 ご協力をよろしくお願いいたします。
 太田武二(命どぅ宝ネットワーク)、ヨッシー(友人)、佐竹周一(友人)、中馬由紀子(友人)、中野高(友人)、富田直子・剛・翔子(家族会)、赤羽則子(家族会代表)、ハネやん(家族会)、末木(家族会)、
1/15 現在
郵便局 10020−84023361
赤羽 則子